「FRIENDS~主はわたしの友となった」(ヨハネ15章15節より/作詞・作曲 森下 耕)
ヨハネによる福音書15章で、「わたしはまことのぶどうの木」という曲を以前に作ったことがありましたが、その聖書の言葉の中で「わたしにつながっていなさい」というイエスさまの言葉があって、それは手をつなぐイメージがあったのです。現代、コロナの状況の中で、人と人とが手をつなぐ状況に消極的になることは、少し切ないところです。
15章にはもう一つのメッセージがあって、イエスさまが弟子たちに、「これからはわたしはあなたがたを友と呼ぶ」という言葉が出ています(15節)。先ほどの「手をつなぐ」イメージが、この友という言葉と結びついて、曲のイメージが出来てきた感じですが、「わたしには、友がいない」という出だしのフレーズで、孤独や絶望感があって、そんな人間に、イエスさまは一人一人に友となってくださる、そんな歌詞のイメージができました。
この聖書の箇所では、たとえば13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という痛烈なメッセージもありますが、その言葉はあえて使わずに、主は十字架におかかりになった、という歌詞にしてみました。
友となることには17節にも「互いに愛し合いなさい。」というメッセージがあり、「友」と「愛する」という二つの言葉は、イエスさまにあっては不可欠な、密接な関りを持っているというのがイエスさまのおっしゃっている言葉だと思います。
私くらいの世代だと「フレンズ」というと、レベッカの曲を思い起こします。昔早稲田大学の学祭での伝説のライブなど未だに記憶に残っていることですが、残念ながら本曲ではコード進行などは似ても似つかないのですけれども、何となくあの曲のイメージが頭の片隅にありながら作っているあたりはわたしもまさしく旧人類?なのでしょう(9/11)
「星降る闇夜」Ⅱ(マタイ2章より/作詞作曲 森下 耕)
キリストが誕生した夜のことを一般的に「聖夜」というようですが、その様子を描いているのは聖書では二つの文書があります。一つは羊飼いたちがその様子を見に来るお話し(ルカによる福音書二章)で、もう一つは東の方から星の導きを頼りに来た学者たちです(マタイによる福音書二章)。後者の学者たちの出来事には、ユダヤ一帯を支配していたヘロデ王が登場し、救い主として生まれたイエスの命をつけ狙い付近の二歳以下の幼児たちを皆殺しにしたという残酷極まる話が示されています。あまりに生々しい悲しい出来事で、歌詞にするのが躊躇われたのですが、たとえば今現在、ロシアの侵攻で犠牲になったウクライナの子どもたちは200人以上にのぼる(国連人権高等弁務官事務所調べ)ことを考えると、これこそ現実なのだと思い返しました。昔の時代も現実に根があったからこそ聖書のことばは真実なのです。歌もその悲しみの叫びを担わなければなりません。(2022年8月30日)
聖書のことば
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。 激しく嘆き悲しむ声だ。 ラケルは子どもたちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない、 子どもたちがもういないから。」
(マタイによる福音書二章16-18)
「空の鳥、野の花」(マタイ6章25節より/作詞作曲 森下 耕)
牧師になって何十年も経つのにこの歌の歌詞で「俺にも神様が共にいて下さると信じて歩んでもいいのでしょうか?」
なんて間抜けなことを書いていると言われそうだが。でも正直なところ、ただでさえ聖書なんていう分厚い分かりにくい本を相手に格闘しそれをどうやって人々に伝えるかということを本気で考えているのがいわゆる牧師さんたちなのである(含自分笑)。
鳥や花の自然な姿をイエス様がたとえて話したのがマタイ6章25節の「空の鳥を見よ、野の花を見よ」というところ。そしてここで(考えて、ではなくて)感じて欲しいのは神の恩寵(恩恵)ということで、空の鳥を養い、野の花を生きながらせる神の愛、それはあなたがたにも伴っているではないか、と問いかけるわけです。
そこでそのイエスの言葉をなぞるようにして、「鳥や花と共にいてくださる神は、俺にさえも共にいてくれると信じていいのでしょうか」とこういう歌詞の言葉にしたわけです。
それで最後の3番の歌詞のもとになっているのはマーガレット・パワーズの有名な「足跡(Footprint)」という詩の物語です。クリスチャンの人ならたいていよく知っている詩なのですが、この詩では神様はいっしょにいてくれないと思っていたら、実は最も辛い苦しい時神様は自分を背負っていてくれたのだ(それで足跡は二つではなく一人のしかなかったのだと気がついた)という詩です。
ここでも神様はこんな自分にも一緒にいてくれるんだという内容が合わさって歌詞になっちゃった感じです。(2022.8.23)
きみはバビロンのほとりで泣いた(詩編137.1より/作詞作曲 森下 耕)
詩編137は全体としてみるときには自分の好きではない詩編なのですが、
1節だけに限って深い共感を覚える詩編です。アフロアメリカンスピリチュアル
でも恐らく1節だけに限って深いこだわりをもってつくられているのでしょう。
自分が参考にしたメロディはWere You there?(あなたもそこにいたのか:讃美歌21-306)
でコード進行もほとんどそれに近いですが、たぶん黒人霊歌ではこのコード進行一択でしょう。
明るく展開しながら、深い悲しみを切々と訴える歌詞というパターンです。
そういうことで言えば、
RIVERS OF BABYLONという曲を70年代後半に Boney Mというグループが歌っていたのですが
これはラテンのリズムに合わせて、とっても明るく歌いこなしちゃっていたのを思い出しました。
歌詞は滅茶滅茶深刻なのに・・・!!
どうしても日本語の歌詞で作ると明るくはならないのですけれども、それは民族性の違いとか
神学的に解消されている(つまり地上では苦難があるけれど、それだけあなたは天国に近いのだから喜びなさい、というような)ところなんでしょうね。
俺がこだわったのは、詩編137の1節だけに限っておりますが、やはり希望のある歌にしたいので、
「ふるさとに帰ろうよ、いますぐに」という歌詞を加えたことです。(詩編137にはそんな言葉はどこにもでてきません)
ただ、奴隷にされた人たちが自分の故郷に帰りたいと思うのは共通の心情でそれが詩編にも潜んでいるに違いないと思います。
ふるさとを失った人々・・・。今ウクライナ難民の人たちも故郷に帰りたいと願っていることでしょう。
早く難民の人たちがもとの生活を取り戻すことが出来るように祈るばかりです。(2022年8月4日)
主は私の羊飼い(詩編23より/作詞作曲 森下 耕)
これも昨晩、詩編を読んでいて、パッと浮かんできたような感じがあります。
このところ、ずーっと「パルーシア」(共に在る)というギリシア語を
追い求めてきて、実際に「パルーシア~あなたの生きていく場所で」という
歌を6月頃作っていまして、俺は須坂教会の説教の中で(6月26日)この歌を歌いましたし、今度
信州教会の説教でも歌うつもりです(説教タイトルも「あなたの生きていく場所で」)。
歌のサビで、この「パルーシア」をリピートする構造なのですが
(既に作詞作曲した「シャローム~平和があるように」「マラナタ~どうぞ主よ来てください」もそうです笑)
今回似たようなテーマで作ってみました「主は私の羊飼い」は「パルーシア」は使わず
ダイレクトに「共に」をサビにしました
詩編23を直そのまま歌詞にしている讃美歌も随分あるそうですが、これは130編とは違ってそのまま歌詞にはならなかった。
この詩編23の歌は自分自身を一匹の羊に譬え、神様(主イエス)を羊飼いに譬えているものですが
「死の陰の谷」は言葉としては分かりにくいので「死の谷」としましたし、
「何も欠けることがない」も「何も恐れはない」に読み替えています。(2022年7月12日)
追記:いやー、今二番の歌詞を作っています。「青草の原に休ませ」「魂を生き返らせて下さる」の、いわゆる休みのモチーフがやはりこの歌には必要だと思いなおし、1番だけで終わるつもりだったんですが2番の歌詞も書いてみました。「青草の原に休ませ」は単に「休ませてくれる」、「魂を生き返」は「心が生き返る」としてみました。エンドフレーズは1、2番とも主と共に歩める勇気をください、という形で終結します。俺としては「神と共に歩める」のも飛び込んでゆける勇気を(神様から)与えられることが祈りの課題となっています。(2022年7月13日)
深い淵(ふち)の底から~DEEPEST DEPTH(詩編130より/作詞作曲 森下 耕)
詩編130編の深き淵より我、汝を呼ぶの歌詞は、いつか曲にしてみたいと思っていたものでしたが、昨晩、詩編をなぞっていた時に和音とメロディーが浮かびました。深き淵の底(Deepest depth)は海底を表すような言葉ですが、同時にとても助からないような苦難、言わば嘆きの底にあるような人間の状況を示しています。俺は歌詞の状況は徹底的に嘆きに徹した方が良いと考え、130編の7-8節は省き、1-6節までの内容としました。悲嘆を心の奥底に抱えている方々のことに心を寄せつつ出来てきた感じです。
また今回、初めて最後の方に、歌詞をラップ調にしたセリフが入ってきます。これは「見張りが朝を待つにもまして(6節)」という部分です。今度の長野本郷教会のコンサート(7/31)の時に披露できるかと思います。(2022年7月9日)
(歌詞の一部)
深い淵(ふち)の底から 主よ あなたを呼びます。
主よ この声を 聞き取って ください。WOWOO
なげき 祈る この声に 耳を かたむけ て